中央大学校歌

作詞 石川道雄

作曲 坂本良隆

 

一 草のみどりに風薫る

  丘に目映(まばゆ)き白門を

  慕い集える若人が

  真理(まこと)の道にはげみつつ

(はえ)ある歴史を承け伝う

  ああ中央 われらが中央

  中央の名よ光あれ

 

二 よしや嵐は荒(すさ)ぶとも

  揺るがぬ意気ぞいや昻(たか)

  春の驕奢(おごり)の花ならで

  みのりの秋やめざすらむ

  学びの園こそ豊かなれ

  ああ中央 われらが中央

  中央の名よ誉あれ

 

三 いざ起()て友よ時は今

  新しき世のあさぼらけ

  胸に血潮の高鳴りや

  湧く歌声も晴れやかに

  自由の天地ぞ展(ひら)けゆく

  ああ中央 われらが中央

  中央の名よ栄あれ


惜別の歌

作詞 島崎藤村

作曲 藤江英輔

 

一 遠き別れに耐えかねて

  この高楼(たかどの)に登るかな

  悲しむなかれわが友よ

  旅の衣をとゝのえよ

 

二 別れといえば昔より

  この人の世の常なるを

  流るゝ水をながむれば

  夢はずかしき涙かな

 

三 君がさやけき目のいろも

  君くれないのくちびるも

  君がみどりの黒髪も

  またいつか見んこの別れ

 

四 君の行くべきやまかわは

  落つる涙に見えわかず

  袖のしぐれの冬の日に

  君に贈らん花もがな

 

※「惜別の歌」は、作曲者・藤江英輔が、島崎藤村の詞「高楼」を藤村のご遺族の許諾の下に一部改め、曲を付したものである。


あゝ中央の若き日に

(中央大学応援歌)

中央大学学友会選定歌詞

作曲 古関 裕而

 

一 憧れ高く空ひろく

  理想の光あやなせる

  あゝ中央の若き日に

  伝統誇る白門の

  闘い挑む旗仰げ

  力 力 中央 中央

 

二 情熱(ねつ)と力の若人が

  精鋭こぞりふるいたつ

  あゝ中央の若き日に

  雄叫(おたけ)ぶ血汐 紅は

  闘魂たぎる火と燃える

  力 力 中央 中央

 

三 我らが誇り覇者の歌

  燦(さん)たり栄光我が生命(いのち)

  あゝ中央の若き日に

  今ぞ座らん覇者の座に

  いざ勝(かち)どきを揚げんかな

  力 力 中央 中央


「惜別の歌」の由来

元商学部教授 猪間駿一

この歌は、諸君のみならず、世聞の若い人たちのあいだでも、広く歌われるようになっているが、その作曲が諸君の先輩の手に成ることも諸君は知っておられるだろう。作曲者は藤江英輔君といい、昭和十九年に大学の旧制予科に入学、二十五年に法学部を卒業し、新潮社に入社、今は「週刊新潮」の政治記事を担当して活躍している方である。歌は御承知の通り

 

() 遠き別れに堪えかねて この高殿に登るかな

悲しむなかれわが友よ 旅の衣をととのえよ

() 別れといえば昔より この人の世の常なるを

流るる水をながむれば 夢はずかしき涙かな

() 君がさやけき目の色も 君くれないの唇も

君がみどりの黒髪も またいつか見んこの別れ

 

というのであるが、これを聞いて、別れの歌としても男子青年の歌ではないと思わない人、最後が完結していない尻切れトンボだと思わない人は、鈍感といわねばならない。まったくそうであって、この歌は本来嫁入りのため遠く旅立つ姉とそれ送る妹とのあいだの別れの歌であり、第四節があるのを、藤江君の意思に反してチョン切られているのである。

藤江君はこの歌詞を島崎藤村の明治三十年に出した処女詩集「若菜集」の中の「高楼」という長い詩からとった。この詩はいま申したように姉と妹との対話になっていて、その中で妹が「わが姉よ」という箇所を、藤江君が「わが友よ」となおしたのである。そしてチョン切られた第四節というのは、次のような詩句だ。

 

(四) 君のゆくべき山川は 落つる涙にみえわかず

柚のしぐれの冬の日に 君に贈らん花もがな

 

この第四節を歌ってこそ、惜別の歌は、たとえ男子の別れにはいささかどうかと思われる点があるにせよ、首尾完結した一篇の詩になる。どうしたことかこれが削られたのは、私も藤江君と共にまことに遺憾とするものであって、語君はどうかこの第四節の復活を図っていただきたい。

 しかしこの歌詞の内容となると、疑問をいだかれる人もあるかも知れない。君を送るために一枝の花をあげたいが、冬の日でそれすらもない、と言っているのは、少しオーヴァーじゃないか。冬だって花屋へ行けば、菊でもカーネーシヨンでもいっぱいあるじゃないか、と今の学生諸君なら言うであろうからだ。けれども私は、それはいけないと言う。この歌を歌う時には、やはりこの作曲がなされた時代に即して歌を味わわねばならないのである。藤江君がいかなる時代に、いかなる環境の中で作曲をしたか、それを語ることはやがて「惜別の歌」の由来を語ることになる。ではそれを述べよう。

諸君、今日は十二月一日である。諸君にはあるいはこれが歳末の一日だというほかに何の興味もない日であるかも知れない。せいぜい自民党大会で総裁選挙が行われるというのがこの日の第一の関心事であろう。だが私のように戦争の経験を経てきた者には、他に深刻な追憶をこの日にもち、そうした人々は国民の中になお少なからずあることを記憶されたい。二十三年前の今月今日、氷雨降る代々木原頭に、学徒出陣ということが行われた。危急を告げる広大な戦線の配備につくべく、何万の学生はペンを棄てノートを棄て、教室を去ってこの日戦場に向かった。その学生たちの何千か、それきり再びこの国へは帰らなかった。それらの中には、諸君の先輩たる中央大学生も数知れず含まれていた。話はこういう時代を背景にしてのことであることを、諸君はまず以って御承知願いたい。

藤江君が入学したのは学徒出陣の始まった翌年であって、彼は徴兵官の錯誤から出陣ということはしなかった。しかし教室で授業を受けるという訳には行かず、動員を受けて板橋の造兵廠へ行って労働に従事することになった。ほかの大学からも、専門学校からも、中学校からも無数の学生生徒がそこに集まって、激しい勤務に服していたのである。青春を調歌すべき年齢期の人たちが、そのように殺人用具をつくることに月日を徒費していたことを思うと、いたましいとも何とも言いようがない。かかることは再びあってはならない。しかし歴史を見る場合には、今の判断を直ちに過去にあてはめるのは誤りである。歴史は当時の人々の一般的心理に同調し得る余裕を以って対さねばならない。藤江君の語るところでは、このような状態ででも、心は結構楽しかったそうである。苦しい自分の労働が、国家の安危につながると思う時、旋盤に向かう全身の力は倍加し、これこそは生き甲斐と感じたという。それに工場動員の中には女子学生も多数にまじっていた。戦前は男女の青年が同じ場所に立ちまじるということは今とはちがって、社会的に禁制であった。それなのにこの殺風景な兵器工場でかえって禁制が解かれるということは、これは私の推察であるが、男女ともにほのかな喜びであったに違いないと思う。私はいかなる抑圧の下にあっても、青春の芽生えは健やかに育つことを信ずる。

しかしそうした苦しさの中の楽しさ、陰惨さの中の陽気さのただよう中にも、一瞬、全工場がシーンとなる時があった。それは誰かに赤紙が来たと伝えられる時である。戦線への召集令状が赤紙である。

その来かたがだんだん頻繁になってきたある日、藤江君は今のお茶の水女子大、当時の東京女高師の女子学生から「この詩を御存じ」といわれて、藤村の「高楼」を見せられた。藤江君はヴァイオリンを弾いたりもする。「高楼」の詩を見て、これに譜をつけようと思ってとりかかり、出来たのが惜別の歌」の作曲なのである。

こうして出来た「惜別の歌」に発表会の何のという時代ではない。藤江君が働きながら小声に口ずさむ。隣の友だちが聞きつけて教えろという。その人が歌うとまた隣で教えろだ。こういう風にして歌はたちまち工場内にひろまり、やがて戦争がすんで、動員された学生生徒が学校へ帰ると、その学校の中で歌われるようになり、中央大学でもグリーンクラブが譜をアレンジして「惜別の歌」という名を正式にきめるようになったのである。世間へ広まったのは、それから後で、新宿に歌声喫茶というのが出来て、ここで毎晩大声に歌われたらしい。それをみてコロムビアが何とかいう有名女優と離婚した流行歌手小林旭(笑声)に吹きこませたレコードが大当たりに当たって、広く歌われるようになったのである。

しかし、戦時中は、この歌は藤江君たちが働く軍需工場での赤紙応召者を、同じく勤労動員された学生同僚が送り出す時のお別れの合唱歌になっていた。その時に、見送られる人に対する餞として、一体何があったろうか。日の丸に「武運長久」と書いて、みんなで署名する。その国旗一枚以外に何もありはしなかったのだ。削られた第四節“君に贈らん花もがな”の一句は、まことにその時の諸君の先輩の哀情をうたったものなのである。そして「惜別の歌」というが、この惜別は単なる別れの名残り惜しさではなかったのだ。いま別れれば再びこの世では相見ることかなわぬという永遠の別れの情をこめての惜別であった。いま諸君がこの歌を歌われるには、そこまで考えることはないし、出来もしない。単なる惜別に歌っても少しも差し支えはないが、時にはこの歌が初めて歌われた頃のことを偲んでいただきたい。

私は先年大学からヨーロツパヘやっていただいた。その際ウィーン大学へ行ったが、そこの玄関には女神の首の像があり、台座の正面には「栄誉、自由、祖国」右側には「わが大学の倒れし英雄をたたえて」左側には「ドイツ学生団及びその教師これを建つ」と彫られてあった。転じてハイデルベルグ大学へ行くと、そのメンザ(学生食堂)の戸口の上には「喜びのつどいにありても、うたげの装いに輝く広間にありても、汝らのために倒れたる英雄を思え。幸福の中にありて、辛酸のかつての年を忘るな。汝らのために死せる者はなお生きてありと思え」と書かれてあった。中央大学にはそういう像もなく碑銘もない。しかしこの「惜別の歌」がある。これを歌われて戦いに赴いて、倒れた英雄はわが大学にも少なくはなかったのだ。今日のわれわれの繁栄と幸福は、これら英雄の犠牲の上に立つ。

 

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1.故猪間教授の定年退官記念講義(昭和41年12月1日)よりの抜翠 (平成元年の大阪支部名簿巻末に掲載いたしましたが、戦後50 年にあたり、更に多くの学員の皆様にご紹介するものです。)

2.「学員会大阪支部名簿巻末」より転載。

 

惜別の歌

島崎藤村 作詞

藤江英輔 作曲

() 遠き別れに堪えかねて

この高殿に登るかな

悲しむなかれわが友よ

旅の衣をととのえよ

() 別れといえば昔より

この人の世の常なるを

流るる水をながむれば

夢はずかしき涙かな

() 君がさやけき目の色も

君くれないの唇も

君がみどりの黒髪も

またいつか見んこの別れ

(四)君のゆくべき山川は

落つる涙にみえわかず

柚のしぐれの冬の日に

君に贈らん花もがな